とんでもないニュースが入ってきました!
日本にとって関係の深いペリーに関する資料が発見されたとのことです。
内容は、徳川斉昭が計画したとされる「ペリー殺害計画」というものです。
幕末の日本において、ペリーや開国といったキーワードは誰でも一度は目にしたことはあるかと思いますが、実は裏でペリーが殺されかけていたということが判明しました。
徳川斉昭とはどんな人物なのか、ペリーとの関係や、計画書の内容、そして発見された場所についてまとめています。
徳川斉昭とペリーの関係は?
徳川斉昭(とくがわ なりあき)とペリーの関係は、簡単に言うと「敵」です。(※徳川斉昭視点)
まず、徳川斉昭がどんな人物なのかざっくりまとめてみました。
徳川斉昭は第9代目の水戸藩主で、幼いころからの水戸学に影響を受け、ペリー来航の際には強硬な攘夷論(=排外思想)を主張した人物。後に開国派の井伊直弼と対立し、最終的に敗北した。
徳川斉昭は水戸の藩主として活躍した人物ですが、水戸学の影響から、外国に対しては強い敵対思想があったと言われています。
攘夷論(じょういろん)は外国との通商を反対したり、外国を撃退して鎖国をしようという考えのことを言います。
ペリーが来航し、日本に開国するように迫った時には、開国派だった井伊直弼と対立します。
つまり、徳川斉昭の支持していた思想と真逆の思想であるペリーや井伊直弼に対しては、敵という見方で考えると分かりやすいかと思います。
最終的には圧倒的な外国の軍事力を見せつけられ、国内統一を優先して富国強兵(=経済を発展させて外国と対等な軍事力を身に付ける)という動きが高まったのもあり、攘夷派の勢力は小さくなっていき、徳川斉昭は排除されてしまいます。
しかし、徳川斉昭の攘夷思想はかなり強かったことが、今回のペリー殺害計画書の発見によって明らかとなりました。
徳川斉昭の計画したペリー計画書の内容は?
徳川斉昭の計画していたペリー殺害計画は、「夷人焼殺ノ件」という題名がついています。
内容は、
- 仕掛けをした屋敷に入れてしまえば一度に焼き殺せるのでは?
- 江戸城内の大広間で上官らに酒をたっぷりと飲ませて頭をはねる
- 品川の辺りに待機したものには狼煙を上げて知らせる
- 船中に残ったものも残さず切り捨てられる
というものです。
ペリーだけでなく、他の人をも巻き込む予定の大規模な計画であることがわかります。
実際の書簡の画像がこちらです。
内容について細かく書かれているので、もし実行されたら確実に歴史の教科書に載っていたと思われます。
ペリー計画書が発見された場所は?
ペリーの計画書が発見された場所は「旧野崎家住宅」です。
旧野崎家住宅は国指定重要文化財に制定されている豪邸です。
岡山県倉敷市にあり、江戸時代後期から製塩業と新田開発で成功を収めた、創業者の野﨑武左衛門が建築した建物です。
瀬戸内を代表する邸宅にもなっており、現在は歴史館や塩づくり体験の場として親しまれています。
こちらには、約10万点の文書などが保管されおり、今回はその中から計画書が発見されました。
まだ10万点もあるとなると、これからさらに新しい発見があるかもしれません。
引き続き調査に期待が高まりそうです。